東大の博士号の話

東大は博士号を取るのに査読付き論文(筆頭)が必要とされない(専攻がある)という話は、論文何報かを要件にすると、それを満たせばどんなクソジャーナルであっても博士を出さないといけなくなってしまうので、主査もしくは専攻がその責任において博士号を出すに足るかどうかを判断するために博士号取得の要件が明文化されていないというだけであって、3年経てば誰にでも博士号を出すという話ではないのだけど。なので東大で博士号を取ったのに問題がある人の責任は主査にあるし、公聴会で叩き潰さなかった聴衆も駄目だったということになる。

例えば、トップジャーナルに単著で出していたら、それで博士号を出しても構わんし、形式的査読しか行っていないハゲタカジャーナルに10報出していても、博士号を出す訳にはいかんということだと思うけど。

むしろ、要件があった方が、それも満たしていたら自動的に博士号を出すことができるので、出す側としては非常に楽なのでは?(博士号を出す理由が「本専攻の要件を満たしているので」の一言で終わるのだから)。

発端となったブログは
go2senkyo.com
のようだけど、

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私はむしろ特定の大学に集中的に投下するのではなく、優秀な研究者個人にランキングをつけて上から順番にお金を配っては?と思っています。それができないなら逆に、広く平等にばらまく。今のご時世、評価の基準さえ決まれば、業績を数値化して1から10000番(?)まで研究者を分野ごとに並べるなんてあっという間にできてしまいます。データ解析も難しくありません。毎年の業績に基づいて、例えば分野ごと10番までは2000万円、100番までは1000万円と自動的にばらまいてはどうでしょう?ランキングは公表すれば透明性も高いです。

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と書いている時点でヤバイ。少し勉強すれば小学生でもわかるけど評価の基準の正当性が一番不透明なのだけど。

「おいしいレストランには星をあげましょう」という話で、肉好きの評価の基準とヴィーガンの評価の基準ではいずれもレストランの評価を数値化して並べることは簡単だけど、全然違う評価になってしまう。基準が違えば結果も違うし、「研究者を評価する正確な基準を公平に決めることはできない」ということぐらい少し考えればわかりそうなもの。

基準を決める側が公平性を装って我田引水するだけだろうに。

やはり醜い家鴨の仔の定理はどこかで学ぶ必要があるな。

ちなみに、個人的には無駄と余裕は紙一重なので広く平等にばらまくのが一番期待値が高い。実際は最低限を広く平等にばらまいて、プラスアルファは予算が欲しい人で競争するのが時間の積分を考慮して常識的。

最適な、という話になると、それはマルチバンディッド問題になって期待値は最適を目指すことができても、結果が最適になるとは限らない。これもあたり前の話なのだけど結構通じない人が多い。